久々に、「あぁ私ってまじめで平和な世界に生きているんだ、それは決していいことではないな」と思った本。
読んだ理由
つい先日、ニュースサイトを閲覧していたときに、10代で集団レイプされたという人の記事を読みました。
何かしらの犯罪の被害者になることって、意外と身近なことで、今は運よく平和で平凡な暮らしをしているけれど、そんな日常なんて薄紙一枚を破るように簡単にあっけなく変わってしまうのだと私は思っています。
その、被害者の人も、お友達と駅の近くで待ち合わせをしていたら、全然知らない人たちに車に押し込められ、連れ去られたらしいです。
ふとしたきっかけで日常が変わるならともかく、ふとしたきっかけすら無しに、日常なんて変わってしまいます。
そして簡単に、生死の境目に追いやられます(私も、レイプではありませんが、ふとしたことで日常から生死の境目に瞬間移動したことがあるので)。
でね、その人がおっしゃるには、何とか命は助かったのだけど、日本では「あなたにも原因がある」っていろんな人に責められたらしいのですね。
その人は後に、ドイツへ行くのですが、そこで怖い思いをしたときに助けてくれた人がいらしたのですが、その人は助けてくれただけで、通報はしなかった。
その人は、日本での経験もあって、助かっただけでもありがたいと思ったそうなんだけど、周りの人は口々に「なぜ通報しないんだ!被害者が日本人だから差別しているんじゃないか!」と、助けてくれた人を責めたのだそうです。
実際、助けてくれた人も謝罪したのだとか。
記事を読んでいて、この違いは何なんだろう、と私は思ったのです。
日本では、ちょっとしたトラブル程度では通報しないとか、ことを大げさにしないだとか、言います。
そこまでは理解できるのです、和をもって尊しとなす国なので、文化の違いということでいいじゃないかと。
でも、なんだか知らないけれど、「被害者にも原因が」ってとかく被害者を責めるの、これって一体何なんだろう。
いや、心理学的にはね、理解できるのです。
公正世界仮説というものがありまして、世の中公正なんだと人は信じる、そう信じたい。
何も悪いことをしていないのに、被害に遭っただなんて、そんな酷い世の中に生きているなんてことは信じたくない。
正しいことをしていれば報われる世の中だと思いたい。
被害者は何か悪いことをしたから被害を受けたんじゃないかと思いたい…ので、被害者を、責める。
なぜ、日本人は、世の中公正なんだとこんなに強く思っているんだろう?
心理学の仮説どおりに動くだなんて、脳の思考回路が野生のままの状態ってことじゃないかしら。
なぜドイツ人は、被害者を責めなかったんだろう?
どういうふうにしたら、心理学の仮説どおりに動かないのかしら。
そんなことをツラツラ思っていたところで、この書籍を見かけました。
クラインさんは、ドイツにお住まいだし、この本のタイトル「日本人はなぜ成熟できないのか」からして、きっと何かヒントがあるんじゃないかと思ったのです。
そんなわけで、読むことにしました。
結論
読んでいるとね、やっぱり、頭の固い人がお書きになっているんだなぁと思うのです。
曽野綾子氏は保守論者で昭和6年生まれ、クライン孝子氏は昭和14年生まれ。
もう既に、高齢者でいらっしゃるし、クラインさんなんかはドイツにお住まいの時間がすごく長いから、今の日本の実情を分かっていないところもあって。
だから、例えば、
児童の誘拐事件が起こる度に、「知らない人について行ってはいけませんよ」という、昔なら当然の警告を誰もしなかったのだろうかと思うのですが、…(略)
と曽野氏なんかは書いておられて、世の中に悪い人が居ることを今の人は知らないとおっしゃるけれど、そうじゃないですよね。
知らない人についていってはいけないと、今の子どもはよく教えられているし、世の中に悪い人もいることが分かっている。だから、今の誘拐犯は、ある程度の信憑性がある態度で、知っている人のふりをしたり、あるいは、冒頭に書いたように、突然現れて集団で車に押し込んだりする。
そんなことをされたら、子どもに限らず、大人の男性だったとしても、誘拐されてしまうのです。
…とまぁ、細かいことを言うと、いちいち疑問に思うところは多々あるのですが、そこらへんをさらっと読み流して全体的に考えると、これはすごく読むべき良書だったなぁと思いました。
目からうろこが複数枚。
多少古いところや、ひっかかるところはあるけれど、それでも読むべき良書。
いちいち「今のことが分かっていない!」と反発していると、この本に書いてある良い点を掬えなくなるから、そういうところは読み流す。
それに、この本に書いてあること全てがすばらしくて、そうするべき!ではないと思いますし。
本なんてね、全頁に渡って、腑に落ちるような「真実」が書かれているとしたら、そういう本は詐欺だと思うのですよ。
世界にある、どんな良書だって、せいぜい半分もいいことが書いてあれば、それで十分な良書。駄目な本は、2割程度しかいいことが書いてない。
(何もいいことが書いていない本は、本じゃなくてゴミです。)
だから、変なところは読み流すので、十分。
社会の荒波に揉まれてもビクともしない子どもに育てるために、うそをつく方便を教えることもあるんですよ。世の中は、きれい事だけではとおらないからです。(略)
その一方で、ドイツでは学校教育の中に宗教の時間を導入し、人間の道を教えています。(略)
裏を返せば、家庭教育で教えるうそと宗教教育の真実とを混淆させ、子どもたちに人間の生き方を提示する。曽野さんのおっしゃったように、人間には「光」と「影」があることを繰り返し教え込んで、子どもたちが社会の中でたくましく生きられるように導こうというのです。
これなんか、あぁそうだなぁと思いました。
日本で、「家庭でうそのつきかたを教える」っていうと、そんなことをしている人は少ないんじゃないかと思うけれども、でも実際、全くうそをついたことのない大人は居ないわけです。方便としての嘘、とかね。
だから、正しい嘘のつきかたというか、自分がしっかり生きていくための嘘を、家庭で教え込む。
その一方で、宗教も教え込んで、いわゆる「うそつき」にならないようにも導く。
こういうのも、大事かもしれないなぁと思います。
本音と建前があることを教え込む。
大事ですよね。
みんな仲良くしましょう、みんなで協力しあいましょうって表でも裏でも言ってたら、悪口を言われたときにへこたれてしまうでしょ。
「すばらしい記憶力を持っていらっしゃるのね。あなたのように何でも覚えていると、人の倍生きたくらい、おもしろいことがあるでしょう?」
「そうね」
そこで彼女は一瞬、伝票を作る手を止めたんですよ。
「でも、覚えていると、辛いことも多いわよ」
彼女は、これまでにきっと何度も人に裏切られたり、いやな目に遭ったりしたんでしょう。それを数秒のうちにありありと思い出して「こんなことは忘れたい。でも私はこの人が言った通り、覚えている才能があるために苦しむんだわ」と感じたのだと思う。それをいちいち口にはしないけれど、さらっとユーモラスに表現するんですね。私、旅先で出会った人とその程度の「人生の会話」をするのが楽しみなんですけど、日本では滅多にできない。日本人というのは、人生を感じてはいるんでしょうけれど、それを整理して語れない人が多過ぎる。(略)日本人の多くは、不幸の根源を社会や政治が悪いからだと考える。そして社会運動をしたりして、社会に還元してしまう。私に言わせれば、それは個人の力にはまったくなりません。不幸を自分の人生の糧にしようとしないから大人になれない、そんな気がします。
なるほど、一理ある。
「社会の制度が悪いから」と言っているうちは、確かに、自分自身をどうにかしようなんて思わないですよね。
「自分が悪い」わけじゃないんだから、自分を責める必要は無いのです。だからといって、社会の制度のせいにしてもしょうがない。そうそう変わるものでもないし。
あいつが悪いだの自分が悪いだの、原因探しして、とにかく悪者を見つけないと気がすまないのかなと思うのです。
誰も悪くないけれど、悪い状況に陥ることは現実としてあり得るわけで。
ここが、日本人が被害者を責めることにつながる部分でしょうか。
不幸には何かしら、罪になるような原因があると思っているんでしょうね。
長らく、勧善懲悪の時代劇が流行ったせいかなぁ…
フランスの映画なんか、理不尽な上に、ふわっと終るものが多いですが、現実なんてそんなものだろうと思うんですけども。
せっかく不幸な目にあったのだから、自分の糧にして、自分が成長する材料にしたほうがいい。この本は、そういうことを言いたいのだろうなと思います。
他にも、いろいろと、いいこと書いてるなぁと思う部分はたくさんあったのですが…
要するに、もっと、生きのびるための知恵と工夫に真剣に取り組むべきだ、ということなんだろうなと。
特に「生きるための知恵と工夫」なんて意識しなくても、ふんわりと日常が続いていて、それでふんわりと生きていけるのが今の日本なんだけれども、そうじゃなくてもっと生きるということを大切にすべきで、積極的に「生きる」ことを考えないと、何かあったときに咄嗟に対処できないよ、と。
生き延びるということは、本来、もっと厳しいものなんだということが全般的に書かれてある本でした。
そして。
ドイツ人が、まず「通報!」と言う理由や、被害者を責めないも、なんとなく分かりました。
恐らく…表向きは世の中平等だといいつつ、実際の人生では決してそうではないということを、ドイツ人はしっかりご存知なのだろうと思うのです。
何もしなくても不幸な目に遭うことはたくさんある、そのことを繰り返し教育されているのでしょう。
最後に、読書後ふと思い出したことを
昔、学生時代はバスや電車で通学していたのですが、よく痴漢にあいました。
よくと言っても、年に2~3回か。
一番危なかった経験は、大学生の頃に、駅のホームで電車を待っていたら、追いかけられたことでしょうか。
新潟(車社会)の大学の最寄り駅なので、20~30分待ちなんていうこともよくあったし、ホームに私しかいないこともたまにあったのです。
学生は、車で通学している人や、大学の近くに下宿している人が多かったので。
私はたまたま、同じ市内に実家があって、電車で通学していたんですね。
そしたら、30代ぐらいの男性が駅にきて、私をちらっと見たと思ったら、両手を広げて襲い掛かってきました。
無人駅でそのときは本当に誰もいませんでしたし、そもそも電車に乗る人が少ないから、誰も通りかからない。入り口が1つしかない無人駅のホームって案外、死角になるのですね。
ホームのはじっこまで追い詰められたら、逃げ場が無い。
まさか、駅でこんな目に遭うとは、思っていませんでした。
相手はすごいニヤニヤした顔で、無言でこちらに襲い掛かってきて、本当に怖かったです。
しょうがないので、持っていた傘で突いてから殴り、こぶしでぶん殴りました。こちらは女だし長期戦になったら体力がもたないだろう、最初の突きの反応からして相手は大して動けそうには見えなかったので、全ての攻撃を全力で。
すると相手の男は、すごい勢いで、逃げていきました。きっと、こんなことになるとは思わなかったのでしょうね。
しばらくした後で、別件の用事があって警察の方とお会いしたときに、待ち時間があって雑談をしていて、この痴漢の話をしたら、
「よく咄嗟に抵抗できましたね!」
と、言われました。
「最近の人は、人を殴ったことが無いから、そういう目にあっても、抵抗できずに被害にあってしまうのです」
「あー…ずーっと長く、剣道をしていました」
「それは、ご両親に感謝しないといけませんね。武道の経験が無いと、なかなか人を殴れないんですよ」
この本が言いたいことって、そういうことなんじゃないかしら、と、ふと思ったのです。
もっと、「しっかりと生きていくための工夫」をすべきなんじゃないでしょうか。
いつまでも平和な日常が続くとは思わないこと。
何かあったときに、とっさに生き延びれるように。
日頃から、生き延びるための工夫を考えていないと、とっさには動けないんです。